先日、職場の飲み会でこんな言葉をもらいました。
「いつも気を張っている」
「いっぱい飲んだくらいで働けばちょうどいい」
「緩んだぴこた先輩を見てたら、切なくて泣けてくる」
「周りに削られている姿を見ていて、痛々しい」
私は、へべれけになるくらい飲んでしまいました。
その言葉が、沁みすぎて。
ずっと「正解」を生きてきた
長女として生まれ、「親の顔に泥を塗ってはいけない」と育ちました。品行方正を保ち、公務員として規律を守り、母親として子どもたちに正解の姿を見せ続けました。
特につらかったのは、3人の子どもが不登校だった2年間です。
子どもたちの人生の基盤を、全部一人で背負っているように感じていました。誰にも「しんどい」と言えないまま、自分を鼓舞し続けて——気づいたときには、バーンアウトしていました。
それでも私は、「これが仕事であり、大人の責任だ」と思っていました。ゆっくりのんびり好きなことをするのは、定年退職後の楽しみ。または、FIREを達成した後の報酬。今は頑張る時期だ、と。
「他人軸」とは何か|判断基準がいつも相手にある状態
最近、「他人軸」と「自分軸」という言葉を知りました。
他人軸とは、判断の基準が常に「相手がどう思うか」にあること。自分がどうしたいかより先に、どう見られるか、どうすれば正解か、を考えてしまう思考パターンです。
私はまさに、これでした。
何かを決めるとき、まず浮かぶのは「これをしたら迷惑じゃないか」「どう思われるか」。自分がどうしたいか、に気づくことすら、長い間できていませんでした。
他人軸の生き方は、一見すると協調性があり、周囲への配慮ができているように見えます。実際、職場でも「気が利く人」「頼れる人」として評価されてきました。でもその裏側では、自分の本当の気持ちを後回しにし続けることで、少しずつ自分の輪郭が薄くなっていく感覚がありました。
自分軸は、わがままじゃない
「自分軸で生きる」と聞くと、最初は怖くなりました。体たらくな人間になって、社会的に終わるんじゃないか、と。
でも、それは違うようです。
自分軸とは、他人を無視することではなく、自分を無視しないこと。「相手がどう思うか」より先に、「私はどうしたいか」を3秒だけ先に考える、ということ。
先日、休日に「ぼーっとしたい」と気づいて、朝寝をしました。体調を崩していたこともあり、起き上がれなかった。すると子どもたちが家事をしてくれて、息子は祖母を頼って部活に行きました。
何とかなったんです。
「私がしっかりしなければ」と思い込んでいたけれど、少し手を放したら、周りが動いてくれた。それが、小さな気づきでした。
なぜ他人軸から抜け出せなかったのか
振り返ると、他人軸で生きることには、実は「安全さ」がありました。
自分で決めて、自分で責任を取るより、「相手が望むこと」に従っていた方が、判断のリスクを負わずに済みます。批判されても「言われた通りにやっただけ」と思える逃げ道がある。他人軸は、ある意味で自分を守るための処世術だったのかもしれません。
長女として、公務員として、母親として——それぞれの立場に「こうあるべき」という正解が用意されていて、その正解をなぞっている限りは、誰からも非難されずに済みました。自分で軸を作る大変さから、無意識に逃げていたのだと思います。
感受性の強さと、他人軸の関係
もうひとつ気づいたことがあります。私は昔から、人の顔色や場の空気を読み取る力が人一倍強い自覚がありました。
相手がわずかに眉をひそめただけで、「何か気に障ることを言っただろうか」と考え込んでしまう。この感受性の強さが、他人軸で生きる傾向をさらに強めていたのだと思います。感じ取る力があるからこそ、相手の期待を先読みしてしまい、自分の気持ちより先に相手の反応を優先してしまう。
この感受性そのものは、才能でもあります。ただ、その使い方次第で、自分を消耗させる方向にも、人を思いやる力にもなるのだと感じています。
体は正直だった
最近、耳鳴りがひどくなっています。二日酔いが2日続いたこともありました。気力がわかない日もある。
体が「もう待てない」と言い始めているのかもしれません。
「楽しいことは将来の報酬」と思って走り続けてきたけれど、体はもう今、限界のサインを出しています。アーユルヴェーダを学んできた私が、自分の体のサインを一番見落としていた。
皮肉だな、と思います。
体の不調と心の在り方は、切り離せないものだとつくづく感じます。オージャス(生命エネルギー)が枯渇していく感覚については、保育士としての働き方を見直した経験を別の記事にまとめています。
長年の癖は、すぐには変わらない。でも。
「自分軸で生きる」と決めたからといって、すぐに変われるわけではありません。長年染み付いた思考パターンは、意志だけで変えられるものじゃない。
だから今は、特別なことは何もしないことにしました。
ただ、何かを決めるとき、「私はどうしたいか」を少しだけ先に聞いてみる。それだけ。
ぼーっとしたい日は、ぼーっとする。きれいな景色を見たいと思ったら、出かける。それを「もったいない」と責めるのをやめてみる。
小さなことだけど、それが今の私にできる、自分軸への一歩です。
職場での小さな実験
自分軸を意識するようになってから、職場でも小さな実験を始めました。
以前の私なら、頼まれた仕事は内容を確認する前に「はい、やります」と即答していました。今は、「少し確認してからお返事してもいいですか」と、一呼吸置くようにしています。
最初はこれだけのことに、ものすごく勇気が要りました。「即答しないと、やる気がないと思われるのでは」という不安が強く湧いてきたからです。でも実際にやってみると、誰も気にしていませんでした。むしろ、きちんと検討した上での返事の方が、信頼されている感覚さえあります。
「即答すること」と「誠実であること」は、イコールではなかったのだと、この小さな実験を通して学びました。
「自分がやらなければ」という思い込みを手放す
不登校だった2年間、私は「子どもたちの人生の基盤を、私が守らなければならない」と強く思い込んでいました。
でも今振り返ると、その思い込みこそが、私を追い詰めていた最大の要因だったのかもしれません。夫がいて、祖父母がいて、学校の先生がいて、地域があって。子どもを支える力は、私一人だけではありませんでした。
「全部自分がやらなければ」という感覚は、責任感の強さの裏返しでもありますが、同時に、周りを信頼していないことの表れでもあったのだと、今は思います。手を放すことは、無責任になることではなく、周りを信頼することなのだと、少しずつ学んでいる最中です。
「頑張りすぎる」自分に気づかせてくれたのは、涙だった
飲み会で言われた言葉が沁みて、へべれけになるまで飲んだあの夜。実はその後、家に帰ってから一人でひとしきり泣きました。
人前では絶対に見せない涙でした。「頑張りすぎ」だと指摘されたことへの反発と、同時に「そうだよね、しんどかったよね」と、ようやく誰かに認めてもらえたような安堵が入り混じっていたのだと思います。
泣いたあと、驚くほど呼吸が深くなっていることに気づきました。この経験から、感情を溜め込まずに外に出すことの大切さを、改めて実感しました。
子どもへの態度にも、同じ根っこがあった
他人軸で生きてきた私は、実は子どもに対しても、同じような「正解を求める」態度を取っていたことに気づきました。
「ちゃんとしてほしい」「私のようにしっかりしてほしい」——そう望む裏には、「ちゃんとしている自分」が評価されたいという気持ちが隠れていたのだと思います。子育てにおいても、他人軸と自分軸の問題は地続きでした。
よくある質問
Q. 自分軸で生きようとすると、周りから自己中心的だと思われませんか?
私も最初はそれを恐れていました。ですが実際にやってみると、「私はどうしたいか」を少し先に考えるだけで、他人への配慮がなくなるわけではありません。むしろ、無理をして疲弊した状態で人と接するより、自分を満たした状態で関わる方が、結果的に周囲にも優しくできると感じています。
Q. 「頑張ることをやめる」というのは、仕事の手を抜くということですか?
いいえ、そうではありません。仕事の質を落とすということではなく、「頑張らなければ価値がない」という思考の縛りを緩める、という意味です。実際、少し力を抜いた状態の方が、判断力も保育の質も安定していると感じることが増えました。
Q. 長年の思考パターンを変えるのに、どのくらい時間がかかりますか?
正直、今もまだ途中です。数ヶ月で劇的に変わるものではなく、「気づいては戻り、また気づく」を繰り返しながら、少しずつ緩んでいく感覚があります。焦らず、気長に付き合っていくものだと捉えています。
Q. 自分軸で生きることと、わがままに生きることの境界線はどこにありますか?
私なりの答えは、「相手を無視しているかどうか」だと思っています。自分軸は、自分の気持ちを大切にした上で、必要なら相手にも配慮しながら選択すること。わがままは、相手の存在ごと無視して自分の要求だけを押し通すこと。似ているようで、根っこはまったく違うものだと感じています。
あなたも、頑張りすぎていませんか
もしこの記事を読んでいるあなたが、いつも誰かのために動いていて、自分がどうしたいかわからなくなっているなら。
今日だけでいいので、一つだけ聞いてみてください。
「私は今、本当はどうしたい?」
答えが出なくても大丈夫です。気づこうとすること、それが最初の一歩だから。
私もまだ、途中です。一緒に、ゆっくり変わっていきましょう。
それから数ヶ月、他人軸との付き合い方はどう変わったか
この記事を書いてから、数ヶ月が経ちました。
劇的に「自分軸の人間」に生まれ変わったわけではありません。それでも、以前なら気づかずに飲み込んでいた小さな違和感に、今は立ち止まれるようになりました。
「本当は気が乗らないけど、断ったら悪いから引き受ける」——そういう場面で、以前は一切迷わず引き受けていました。今は、「これは本当に私がやりたいことか、それとも他人軸の癖で引き受けようとしているだけか」と、一度自分に問いかける習慣ができました。
問いかけた結果、やっぱり引き受けることもあります。それでも、無意識に流されるのと、一度立ち止まって選ぶのとでは、同じ結論でも心の負担がまったく違うのだと実感しています。
耳鳴りは、今も完全にはなくなっていません。それでも、以前ほど自分を追い詰めなくなったことで、体からの警告のようなサインは、少しずつ静かになってきている気がしています。


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